「モザイク一家」の国境なき人生 パパはイラク系ユダヤ人、ママはモルモン教アメリカ人、妻は日本人、そして子どもは…… (光文社新書) 長坂 道子 (2013/2/15)
「国籍があってないような、定住者のような遊牧民のような、食卓で2つ以上の言語がカオティックに飛び交っているような、そうした人々との交わりを、私自身は、最初はとても新奇なものとして、やがて少しずつ、案外居心地のいいものとしてとらえるようになっていった。」(112頁)
「いつも同じ」状況はある意味で貴重だ。努力して保てているならなおさら。
でも、ほとんどの場合そうはいかない。
保とう、残そうと意識して努力していないもの以外は、どんどん変わっていく。
文化的な、言語的な状況もやはりそうだろう。
現在を見れば、これだけ人もモノも情報も行き交っているのだから、
変化が常に起こっていて、同じ状態に留まっているものを見つける方が難しい。
結果的に、それまで自分が得てきたものとは異なる文化・言語が気が付けば傍らにある、
そんな状況の方が当たり前なのかもしれない。
この本を見かけて、まず読まないとと思わせたのは、タイトルの一部。
「ママはモルモン教アメリカ人」
自分が属している教会(自分たちは「モルモン教」とは言わない。モルモンが作ったのでもなく、モルモンを信仰しているのもないから。)がどんな風に一部分を構成しているのか。
結論としては、「モルモン」はこの物語・この家族にとってそれほど重要ではなかった。
この登場人物「ママ」も、その母親も、表面的にそれほど「モルモン」として生きていなかったようなので。
ただ、ブリガム ヤングの写真を挿絵にしていたり、紙幅も割いてモルモンを解説していた。
ということは、’Christian base’、その一部たる’Mormonism’ という要素・アイデンティティが人となりや日常生活に姿を現していたということか?著者は駅前でモルモンの宣教師を見かけていたくらいで、それ以上のうちの教会と関わりを持っていなかったようだし。だとしたら、それはすばらしいこと。
それよりも印象的だったのは、冒頭に引用したような、多文化・多言語の家族がどんな感じになるかという部分。そこには歴史的・政治的な要素も反映し、国籍があるないという問題にも広がる。
どこに書いてあったか頁をメモして置かなかったが、2人の子どもそれぞれの個性と状況によって、適用としようと奮闘しているし、がんばっている。言語を使い分け、人との接し方を選びながら、ということを書いていた。
親にとって言葉だけでなく、子育てのうまくいったところと失敗だなというところと必ず出てくるけど、親はできる限りのことを懸命にやって、後は子どもがどこに行くのか、どんな人になるのかは委ねるしかない。
現在進行形の結論でした。
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