・・・・・長崎の町人にとって唐船やオランダ船は宝船っであり、とくにオランダ船が入ると、何万、何十万両という財貨がうごき、商家がうるおい、浦方の賃仕事がふえ、職人までがいそがしくなるのである。・・・・・
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ともかくも、ただ1隻のオランダが入津(にゅうしん)するというだけで、長崎の町方も浦方も在所もくるったようによろこんでいる。このような人間現象というのはどういうことなのか。
たとえば宗教でもこれほどひとびとがよろこぶかどうか。
宗教で人間が群がる場合、どこか気狂いのくらさもありうる。粘土の顔に、指をあてて両眼の部分を押してくぼませたように、目がただの暗い穴になっている場合もないではない。
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ともかくも、ただ1隻のオランダが入津(にゅうしん)するというだけで、長崎の町方も浦方も在所もくるったようによろこんでいる。このような人間現象というのはどういうことなのか。
たとえば宗教でもこれほどひとびとがよろこぶかどうか。
宗教で人間が群がる場合、どこか気狂いのくらさもありうる。粘土の顔に、指をあてて両眼の部分を押してくぼませたように、目がただの暗い穴になっている場合もないではない。
司馬遼太郎『菜の花の沖』に取り掛かった。
司馬さんの文庫された長編は、あと『功名が辻』だけか?というところまできた。
それはともかく、上の引用は第2巻62~66頁。
何に対して、どんな理由で、というのはさておき、
人が心から喜ぶ場面て、心からの笑顔があったり、心の高鳴りが雰囲気ににじみ出て、
体全体が震えてるのがわかったり。
その気持ちがずっと記憶や感覚の中に残って、
ふとしたときに鮮明に蘇ってくるような、
(思い出し笑いになったら気持悪いかもしれないが)
そんな喜びは1つでも多い方が、
というか、1つでもそんな喜びを多く得ることが、
人が生きる目的の大事な1つなんだろう。
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