司馬遼太郎『関ヶ原』中巻 p384より
「徳川家、このたび滅亡、ともつぱら申し触れ候。主人主人はいずれへ、御付きなされ候うや、なにとぞ大坂へ御付きあれかしなどと、末々にてはつぶやき申し候うあいだ、過半、大坂方の心持になり申し候。-平尾氏サツ(答に刂)記-
関ヶ原の戦いが始まる前、一般の人たちと世間の雰囲気、
そして動員されているだけの兵卒の気持ちは、
石田三成を首謀者とする豊臣家の勝ちだったらしい。
根拠は、人数。
集められた兵隊の数に、数万人の差があった。
しかし一方で、情報収集ができる立場、
または率先して情報を集め、自己保存を図ろうとした主に大名レベルの判断は、
徳川方の勝ち。
この大名の中には、豊臣側の中枢を占めていた人たちも入る。
そう判断した人たちは、続々と自分たちの内側の情報を、
徳川方に売り始めた。
いはゆる世間の雰囲気に流されて、
自分で良し悪しの判断をしないことの怖さを思い知る。
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