この会話には、”物事の本質”、すなはち相反するものの中に在る本質があるんじゃないか。
pp.531-533 「おれは聖人ではない。神を信じてもおらぬ。・・・・・
おれは、見せかけだけの不敬なキリシタンだ」
「それでは・・・。権之丞さまは、いったい何を信じておられるのです」・・・・・
「おれは、ある男への意地のため、あえて偽りの殉教者になる道を選んだ・・・・・
この世に、おのれの思うとおりにならぬことはないと思い込んでいる倣岸不遜な男だ。おれはその男への反撥から、すべてを捨てたのだ。そして、独りになって見つけた」
「何をでございます」
「信じるものをだ・・・・・おれは神ではなく、おのれ自身を信じる。道は自分で切り拓いてゆかねばならない。神も仏も、人を助けてはくれぬ。おのれ以外のものに縋(すが)っていては、ついに何ごとも為し得ぬだろう」
かといって、彼は決して独りで生きているとは思っていないだろう。よい仲間に恵まれていて、それらの人たちへの感謝の気持ちはいつもあったんだろうと思う。
平泳ぎの北島さんが、1位をとった後のインタビューで「勝てて、感謝しています」と言っていた。
「神は弱き者の魂をお救いくださいます」
「余の者のことはわからぬ。だが、おれは、神を信じるだけでは救われない。闘って、闘って、闘い抜くしか、おのれをささえるすべがない」・・・・・
「権之丞さまは、お強い。それゆえ、お独りでも生きてゆけるのです。わたくしのような心弱い者は、とても独りきりでは・・・・・」
「だから神を信じるか」
「神は遠いところで、わたくしたちを見守っていて下さいます」・・・・・
「神がいるなら、なぜ、幕府に信仰を禁じられて行き場を失った者たちを救わぬ。城中のキリシタンたちは、なにゆえ現世(うつしよ)の聖人をもとめる。天国(パライソ)の幻に縋るだけで、いまを精一杯生き抜くことをあきらめているからではないのか」
神という存在を含め、何か自分以外のものを信じることは、弱いということではない。
自分がどこに立って、物事の善悪を判断するかをはっきりさせるということ。
信じることは、ただ待つということではない。
前を向いて進むこと。
できることをすべてやって、どうしても残るできない部分は他に任せるということ。
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