付和雷同とは違うよ。
p364-366
晏嬰と[景公の側近筆頭だった]梁丘拠の仕えかたのちがいは、
「和と同」
という一言であらわされる。・・・・・
「和をたとえれば、羹(あつもの)です。」
羹は魚や肉のスープのことである。このスープは、もともとあいいれない火と水をもってつくる。味をつけて煮込むのであるが、味も熱さもととのったところで君主の口にはいる。 ・・・・・
「ところが[同は]君がよしと仰せになれば、・・・おなじくよしとする。君がならぬと仰せになれば、・・・おなじくならぬとする。」・・・・・
「愛に従って努力すれば、百の姓をもつ人民を使うことができる。強暴不忠であれば、一人さえ使うことができない。一心あれば、百君に仕えることができ、三心があっては一君にも仕えることはできぬ」
全く異なるものが一緒になろうとするときに、掛け算になって予想以上に大きくなったり、化学反応をおこして違うものが生まれる。その結果は、時としてよい方にもそうでない方にもなる。
よい方になったときに、「人間てこんなにすばらしい偉大なことができるんだ」となる。その逆は、振り子のように、その分逆に振れれる。
以前の『香乱記』の田横といい、この晏氏親子といい、今の山東省あたりにあった斉という国はおもしろい。
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